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【ワイドの本棚】「沈黙」(遠藤周作) にみる日本人の倫理観

 

まいどどうも。ワイドソフトデザインのすくらんぶるです。

遠藤周作先生が、昭和40年代に書かれた「沈黙」。かなり昔の作品であるが、つい最近になって突然の映画化。ずっと温められていたのかどうかわからないが、ちょっとした驚きだったので、ワイドの本棚で紹介しておこう。

本日紹介する本『沈黙』(遠藤周作)

これは、島原の乱が終わって間もない頃の話。キリスト教を布教しようとする司祭や信者に対しての長崎奉行所の厳しい弾圧。その中で苦しむ人々を描いた本と言ってしまえば簡単なのだが、中身はかなり重たい。信仰を捨てる者、裏切って密告をする者、そういった中で、神はいつか救ってくれると奇跡を信じて、弾圧に耐える司祭。対して沈黙し続ける神。そして踏み絵へと。キリスト教社会が持つ倫理観という難しいテーマに取り組んだ作品である。

話は少し脱線するが、遠藤周作先生はノーベル文学賞を取ってもおかしくないぐらい海外からも高く評価されていた。ところが、当たり前のことだが「宗教」をテーマにすると一部の人からは激しく批判される。本著書「沈黙」もその例にもれず、多くのカトリックの人たちから批判を受けた。世界的に権威のある賞が、宗教思想を押し切ってまでとはならないのだろう。残念だが仕方のないことだ。

昔、読むには読んだのだが。。。

この本を初めて手にしたのは、小学校6年生。夏休みの読書感想文の課題に選んだ。そのときの本をまだ持っている。昔の本は、このように箱に入っている。値段は470円。今の電子書籍よりも安い。(もちろん社会の物価は違うけどね) キリスト教やその他の宗教に何の関心もない自分がなぜこの本に興味を持ったかというと、単に「弾圧」という言葉に対しての反抗心のようなものだけだったと覚えている。それゆえ、全くひどい読書感想文だった。そもそも、テストの答案や通知簿や都合の悪いものは何でも踏みにじってしまうような小学生が、踏み絵の痛みなんてわかるわけもなく、遠藤周作先生が取り組んだこの難しいテーマに対して、かけらも触れることができていない上、宗教批判じみたことまで書いてしまったものだから、クラス全員の文集にも掲載不可となる始末。担任からは、違う本での書き直しを要請され、それを拒み続けた私は、職員室で正座して給食を食べる日々が続き、これが「弾圧」かと、大間違いな認識を持った本当に恥ずかしい過去を思い出す。そういう思い出深い(?)著書なのである。

「もう一度、ちゃんと読み直せ」と

冒頭にも書いたが、まさか、この作品が今ごろ映画化されるとは、全くの驚きであった。「もう一度、ちゃんと読んでおきなさい。」と遠藤周作先生に言われているような気がした。これは、映画を見るのもいいが、もう一度、ちゃんと読み直してみようと Kindle本を購入。

この作品を通じて本当に考えないといけないことは、日本社会及び日本人の絶対的倫理観の定義の存在有無である。キリスト教のような絶対的な倫理的行動原理が日本人の根っこには存在しない。現世利益的というか、そのときの社会の状況や集団的な動きによって、信じるものやことを容易に変えてしまうことができるという日本人像が、キリスト教社会からは理解しがたいこととして書かれている。このことは、遠藤周作先生のもう一つの代表作「海と毒薬」でも描かれている。これはキリスト教文学ではないが、人体実験も良しとしてしまった集団心理の存在と、それが優先した日本人の絶対的倫理観の定義の希薄さが描かれている。

果たして、日本社会及び日本人の倫理観の定義は戦後変わったのだろうか。諸外国と比べても倫理観そのものが希薄とは思えない。問題は、ゆるぎない絶対的倫理観の定義がどこかにあるかということだと思う。宗教弾圧や戦争が無くなった資本主義経済の現代社会において、倫理観と言えば、企業倫理観(コンプライアンス)で見るのがわかりやすいのかもしれない。ある大手企業が試験データを改ざんしていたことを公表すれば、次々と「うちもやっていました。」が続出。もちろん記者会見では「一層のコンプライアンスの強化に努めます。」が決まり文句なのだが、これだけ相次いで集団的な動きになると「いけないことで、反省しなければならないことだが、とりあえず安全上は問題がないということがわかったのだから・・・」という許容が生まれ、いずれ社会全体は「良くないことだが、やむを得ない状況もあったのでは」となっていくのだろう。つまり「倫理上は問題だが肯定せざるを得ない」状態が形成されていき、最終的には「今なら許される」という空気に変わり、より集団的な動きに発展していくのではないだろうか。そう考えると、戦後大いに反省した日本社会も、いまだ絶対的倫理観の定義は無いのかもしれない。最初に踏み絵を踏んだ人を見て「もう、仕方がないことだ。今なら許される。」と次々に踏み絵を踏んでいった状況と心理状態は似ているような気もする。今、諸外国から見て、日本の製造業における倫理観は理解しがたいものとしてとらえられているのではないだろうか。

最近思うに。。。

「沈黙」は、普通の小学生が読んでわかる内容や深さではなかった。読書においては、ちょうどその時に糧になるような出会いが一番適切なのだ。同じ失敗を繰り返さないように、娘が小学生のときには「ハリー・ポッターと賢者の石」を買い与えた。そのぐらいがちょうど良いのだ。

つい最近、キリスト教のお葬儀に参列する機会があった。りっぱな礼拝堂で牧師さんの話を聞きながら本著書「沈黙」を思い出した。「自分は現世利益的に動いていないか? ゆるぎない絶対的倫理観を持っているか?」などと考えてみた。

映画は見に行く時間が取れなかったが、いつかゆっくりDVDでも観ようと思う。いつものようにバーボンをちびちびやりながらではなく、ちゃんと姿勢を正して観よう。

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